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What should we call the debate of N.A.F.A. ?
〜「スタイル」とは何か〜


蓮見二郎
(慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程 NAFA顧問理事 慶應義塾討論会KDSコーチ)

初出: Debate Forum vol. XV No2 (2001)
web掲載:2002.4.10


[目次]
1 はじめに
2 「スタイル」とは何か?
 2.1 「スタイル」の二つの意味
 2.2 スタイルの分類
3 適切な呼称の条件
 3.1 適切な呼称の一般的条件
 3.2 スタイルの区別と名づけ方

4 これまでの呼称とその適切さ
 (1) アカデミック・ディベート
 (2) ポリシー・ディベート
 (3) NDTスタイル
 (4) トーナメント・ディベート
 (5) 伝統型ディベート
 (6) Cross-Examination Debate
 (7) quotation-oriented argument debate
 (8) NAFAスタイル/JDAスタイル
5 おわりに

1 はじめに

 全日本英語討論協会(NAFA)主催の大会で行われているようなスタイルのディベートを私たちは何と呼ぶべきなのでしょうか。これがこの文章のテーマです。

 以下、このスタイルのディベートを便宜的に【ディベート】と記すことにします。もちろん、この【ディベート】は、NAFAの専売特許ではありません。大学生の英語ディベートを眺めてみても、同じスタイルでの大会は、関東・日本学生英語会連盟(KUEL/JUEL)・東京学生ディベート連盟(TIDL)・関東英語ディベート執行委員会(KAEDE)などが開催しています。また、日本ディベート協会(JDA)・全国教室ディベート連盟(NADE)・日本学生ディベート連盟(JCDF)などの日本語ディベートの大会でも、ほぼ同じスタイルのディベートが行われています。さらには、一般に市販されている日本語のテキストにおいて紹介されているディベートも、多くがこのスタイルのようです[1]。したがって、【ディベート】とは、これらの総称にあたるものです。

 この【ディベート】の特徴を簡単に挙げるならば、試合前の周到な準備や証拠資料(evidence)の使用による厳密な立証を比較的重視しており、専門の審査員(judge)によって勝敗が決せされ、議論術(argumentation)を身につけるという教育的な目的を有している、などでしょう。上記の大会で行われているディベートは、すべてこれらの特徴を備えています。

 ところで、これまで広く行われきた活動であるにも関わらず、今になって【ディベート】の呼び名に疑問を呈することに、むしろ不思議な感じを受けるかもしれません。しかし、このような疑問を抱かざるをえない事情が存在しています。それは、最近になって【ディベート】の名称について大きな混乱が生じてきていることです。例えば、JDA-MLにおける「何せ自分達の行っているディベートを『ndt(!!!)』と呼んでいるぐらいですから」[2]という発言をきっかけとして起こった一連の議論[3]はその典型と言えましょう。

 こうした混乱の生じている原因は明らかです。これまで日本において「ディベート」あるいは「教育ディベート(academic debate / educational debate)」と呼べば、ほとんどの場合、この種の【ディベート】を指していました。これは、単に【ディベート】以外のスタイルのディベートが、あまり行われていなかった[4]という理由によります。しかし、日本でも1990年頃から、イギリス風のパーラメンタリ・ディベート(Parliamentary Debate)という別のスタイルのディベート活動が普及してきました。これつれて、両者の区別をつける必要から、【ディベート】を単に「アカデミック・ディベート」と呼ぶだけでは済まなくなってきたという訳です。

 ことほどさように、NAFAが手掛けているような【ディベート】は、現在、その名称を確定できない程のアイデンティティ・クライシスに陥っています。

2 「スタイル」とは何か?

 2.1 「スタイル」の二つの意味
 では、そもそも「スタイル」とは何なのでしょうか。これは明らかに異なった幾つかの意味で用いられています。それを大きく二つに分けるならば、一つはスピーチの仕方であり、もう一つはディベートの種類を指しています。
(1) スピーチの仕方
 「スタイル」という概念の第一の意味は、スピーチの仕方のことです。これはスピーチ・スタイルの略であり、この場合のスタイルは「表現様式」と訳すことができましょう。例えば、"speak in a formal style"と言った場合のstyleがこの意味です。"NTC's Dictionary of Debate"中のstyleの項目も、この意味で記されています[5]

この意味のスタイルとして、例えば、"Pros and Cons"のHow to debateの章にある、Stylistic Tipsでは、

(1) appealing to listen to
(2) body language
(3) humour
(4) rhetoric
(5) accent
(6) a glass of water
の六つが掲げられています[6]。また、『Essence of Parliamentary Debate』では、第4章がスタイルにあてられており、
(1)話し方
...声の大きさ、話す速さ、声の高低、「間」の使い方、English時間配分
(2)外見的要素
...立ちかた、ノート及びカードの使い方、目線の使い方、ジェスチャー、顔の表情、服装
について解説されています[7]

もちろん、ここで呼び名を考えようとしている意味での【ディベート】の「スタイル」とは、この意味でのスタイルではありません。しかしながら、この意味と混同される場合もあるようですので、次に記す意味との違いは、明確に認識しておく必要があります。

(2) ディベートの種類
 ディベートにおいて用いられるスタイルという語のもう一つの意味は、ディベートの種類のことです。例えば、"every size and style of mirror"という場合のstyleのように、スタイルは日本語で「種類」を意味することがあります。ディベートにおいて、スタイルをこの意味で用いた場合、広義の「フォーマット」[8]とほとんど同義となります。この文章で問題としているスタイルとは、このディベートの種類という意味です。

 2.2 スタイルの分類
 この二つ目の意味でのスタイルは、ディベートをどのように分類するかに応じて、さらに次のような幾つかの異なった観点をとっています。

(1) 試合形式による区別
 スタイルが、チーム数、立論・反駁のスピーチ回数・時間、質疑応答の有無・方法などの試合形式(狭義の「フォーマット」)による区別を意味することがあります。

 例えば、リンカーン・ダグラス・スタイルとは、一人制ディベートで、肯定側立論→否定側立論→肯定側第一反駁→否定側反駁→肯定側第二反駁、というスピーチで構成される試合形式のディベートを指している点で、試合形式により他と区別されたものです[9]

 また、パーラメンタリ・ディベートにおけるBritish Style, North American Style, Australia-Asian Styleという区別も、この試合形式による区別だと言えます[10]
(2) ルールによる区別
 単なる試合形式のみならず、ルールが大きく異なっている場合にも、別のスタイルとして認識されることがあります。

 例えば、Public Debate(Audience Debate)と呼ばれるのは、専門のジャッジではなく、一般の聴衆を相手に行う種類のディベートを指します。審査する人がディベートの素人であるという点で、【ディベート】ともパーラメンタリ・スタイルとも異なっています。

(3) 論題による区別
 論題の種類によってスタイルを区別することもあります。例えば、事実論題を用いるディベートを事実ディベート(fact debate)と呼び、価値論題を用いるディベートを価値ディベート(value debate)と呼び、政策論題を用いるディベートを政策ディベート(policy debate)と呼びます。
(4)目的による区別
 議論の中身の良し悪しのみに重きを置くのか、それともその伝え方にも大きな比重を置くのか、あるいは、専門のジャッジに対する説得力を目指すのか、それとも一般の聴衆に対する説得力を目指すのか、などの目的からの区別も存在しています。目的が異なる場合には、もちろん試合形式やルールも異なる場合があるのは言うまでもありません。

 例えば、KUELにおいて、【ディベート】とパーラメンタリ・ディベートとは明瞭に活動の意義・目的の点から区別されています。【ディベート】が英語コミュニケーション能力のうちのロジックを目的としているのに対して、パーラメンタリ・ディベートとは、【ディベート】のロジックのみならず、スピーチにおけるレトリック、ドラマ(演劇)におけるデリバリーといった各コミュニケーション能力を総合した活動であり、各能力の確認・向上のための活動とされているのです。これは、目的によって両者を区別している例だと言えるでしょう。

(5)主催団体による区別
 スタイルの相違が主催団体の相違に基づいている場合も考えられます。主催団体が異なる場合には、多くの場合、他の点でも異なっていることがあります。例えば、目的であったり、試合形式やルールであったりします。

 例えば、NDTスタイルとCEDAスタイルとは、現在では共通論題を採用し、両方の大会に参加するスクワッドが幾つも存在する[11]など、実質的にはほとんど差異が無くなっているので、この主催団体による相違という面が強く残っていると考えられます。[12]

 また、アメリカはパーラメンタリ・スタイルでも2つの団体が存在しています。APDA (American Parliamentary Debate Association)とNPDA (National Parliamentary Debate Association)とです。両者は、試合形式・ルールも多少異なっていますが、その運営方針も大きく異なっているようです[13]
(6)コミュニティによる区別
 スタイルが単に主催団体を越えて、コミュニティによる区別を意味する場合もあります。この場合のスタイルは、アイデンティティ・帰属意識の範囲を表わしているという点で、近代国民国家におけるナショナリズムに似ています。

 このような例として、英語ディベートと日本語ディベートとのコミュニティの違いを挙げることができるでしょう。英語における【ディベート】を何と呼ぶかは置いておくとして、日本語の大学【ディベート】の名称として、英語においては決して用いられることのない「パブリック・スタイル」が使われることがあります。こうした事実は、スタイルが内容の違いに関わらずコミュニティによる違いを表わしている可能性を示唆しています。

(7)範型による区別
 最後に、範型(モデル)によって区別されたものを別のスタイルと呼ぶ場合があります。この場合の範型とは、その種類のディベートが範にとっている元のものは何か、という意味です。この場合のスタイルは、「種類」という訳語よりは、「〜風」という訳語を当てるのがより素直で分かり易いでしょう。例えば、"Japanese-Style Dishes"が、この意味でのスタイルの用例です。

 拠ってたつ範型が異なる場合、当然のことながらほとんどの場合、目的が異なっていたり、あるいは、少なくとも試合形式やルールが異なっています。また、そのために主催団体やコミュニティが異なることもありましょう。

 例えば、パーラメンタリ・ディベートの範型は、イギリスの下院議会です。そのため、Parliamentなのであって、Congressとも、Dietとも呼ぶことは決してありません。つまり、イギリス議会風のディベートだからパーラメンタリ・スタイルなのです。

3 適切な呼称の条件

 3.1 適切な呼称の一般的条件
 適切な呼称の備えるべき条件は何でしょうか。少なくとも次の3つは必要でしょう。
A:区別の目的に適っていること
 呼称を決める際に最も重要なのは、その呼称を定める目的に適っていることです。ものに名をつけようとしている以上、それを他のものと区別する必要に迫られているはずです。したがって、区別したい点を明確にして、その区別の軸に沿った名称を採用する必要があります。

 例えば、「オリンピックとマラソンとを区別する」と言った場合、オリンピックの競技種目にはマラソンも含まれる以上、何を区別したいのか不明確になってしまいます。また、「ミカンとビタミンCとを区別する」と言った場合も、両者の次元が異なっているために、聞き手は戸惑ってしまいます。

 このようなことを指して、沢田允茂は「いろいろな名まえのあいだにある秩序」と呼んでいます[14]。 こうした秩序づけで重要なのは、ここでの文脈から言えば、【ディベート】を何から区別したいかということです。この点を考えると【ディベート】の最大の区別対象は、目下のところ、パーラメンタリ・スタイルであると考えられます[15]
B:英語にしたときに通じること
 英語にした場合にネイティブ・スピーカーに通じる名称であることは十分条件ではないものの、必要条件の一つでしょう。英語【ディベート】の世界(これはむしろ《ディベ》の世界と言うべきか)におけるdecision ruleやdefinitionのように、日米で指し示す内容が微妙に食い違うようなことがある[16]のはあまり望ましくないと考えられるからです。

 しかし、注意して欲しいのは、これが英語圏での用語法をそのまま受け入れるべきだということを必ずしも意味していないことです。実際には、英語圏の用語法も疑って掛る必要のある場合が存在するからです。

 そうした例の一つとして、地名や人名の読み方を挙げることができましょう。英語においては、外国語の地名もアルファベットで表記できれば英語風の読み方をしますが、現在の日本では社会科の教科書やニュースなども含めて、現地(原語)の読み方を尊重するようになっています。また、同じ英語内でも、誤って呼ばれるようになった「インディアン」という呼称が、最近では「ネイティブ・アメリカン」と呼ばれるようになっている事例があります。

 このように、英語圏で使われている呼び方であっても必ずしも適切だとは限りません。この点への注意を怠ると、既存の英語名に固執する"英語絶対主義"に陥ってしまいます。あるいは、現在の【ディベート】で用いられる用語のほとんどがアメリカにおけるディベート用語に由来していることから、"アメリカニズム""アメリカ帝国主義"に陥ってしまう可能性もあるでしょう。これは、イギリス風のパーラメンタリ・ディベートが広まってきている現状では、あまり好ましくないものです。

C:名実不一致の排除
 名前と実質とが不一致を起こすような名称は極力排除すべきでしょう。このような事態は、ルールや試合形式の特徴から命名したにも関わらず、その特徴が破棄されてしまった場合や、採用したモデルが破棄されてしまった場合に生じえます[17]。例えば、"Cross-Examination Style"と呼ぶにも関わらずcross-examinationを行わない試合形式をとるならば、これにあたりましょう。また、政策論題を用いて政策決定パラダイムのディベートなのに、「法廷ディベート」と呼ぶのはあまりに内容とかけ離れた名前だと言えましょう。

3.2 スタイルの区別と名づけ方
 スタイルの区別と名称の付け方とは区別して考える必要があります。例えば、スタイルをフォーマットの別という意味で用いたからと言って、その観点から付けたスタイルの名称は、全てフォーマットを直接表わすもの(例えば「一立形式」「2Con. 2Reb.」など)でなければならないということはありません。

 しかしながら、そうは言っても、スタイルの区別と適切な名称との間には、ある一定の関係が存在しています。これは、そうでなければ、区別の目的を果たせず誤解が生じかねないという理由から起こるものと考えることができます。

 実際に、各スタイルの区別毎に、次のような由来の名称を付けることが一般的には誤解が生じ難いでしょう。
(1)試合形式→フォーマット名又はそのあだ名(例:「一立形式」)
(2)ルール→特徴的なルール又はそのあだ名(例:「即興ディベート」)
(3)論題→Fact/Value/Policy Debate(例:「バリュー・ディベート」)
(4)目的→目的又はそこから導かれる(1)(2)(3)(例:「オーディエンス・ディベート」)
(5)主催団体→団体名(固有名詞)(例:「NDTスタイル」)
(6)コミュニティ→コミュニティの名称(固有名詞)(例:「APDAスタイル」)
(7)範型→元になったもの又はその特徴(例:「パーラメンタリ・スタイル」)
4 これまでの呼称とその適切さ

 それでは、これまで【ディベート】は何と呼ばれてきたのでしょうか。そして、それはどういう区別に基づき、その名称はどういう由来を持つものなのでしょうか。そして、それは本当に適切な呼称なのでしょうか。以下、よく用いられていると思われる呼称から順に検討してみましょう。
(1) アカデミック・ディベート
 【ディベート】のことを「アカデミック・ディベート」と呼ぶ人々が日本ではまだかなり多数存在しています。【ディベート】を「アカデミック・ディベート」と呼ぶのは、実社会における「現実の」ディベートに対応する概念として用いられている「アカデミック(academic)」の訳語に「学術的」という日本語を充てたために生じたものだと推測できますが、この名称が広めたのは、KUELにおける活動の意義付けでしょう。実際、KUELのパーラメンタリ・ディベートのテキストでは、【ディベート】についていまだに「アカデミック・ディベート」という呼称も使用しています[18]

 確かに、academicの語に「学術的」という訳語を与ることは多いので、【ディベート】が学問研究を範型としているディベート活動であるのならば、この呼称は極めて適切なものです。しかしながら、残念なことに、【ディベート】は必ずしも学問研究を範型とはしていません。エビデンスを用いるように厳密な議論を行うという点では学問研究に類似していますが、仮説検証パラダイム(Hypothesis Testing Paradigm)が支持を失っている現在、【ディベート】を学問研究のモデルから捉えることには、多くの反発が予想されます。

 さらに、パーラメンタリ・スタイルを区別対象とするならば、「アカデミック・ディベート」が【ディベート】の呼称として相応しくないのは、言うまでもありません。本誌上でも何度か指摘されていますが、それを端的に言えば、パーラメンタリ・スタイルもまさしくアカデミック・ディベートの一つだからです。というのも、「アカデミック・ディベート」とは、「議論の帰結自体に目的はなく、そのプロセスに啓蒙やレクリエーション等の効果を期待して行われる学習的・教育的『ディベート』」[19]だからです。実際、NPDAのウェブ・サイトにおける"About Parliamentary Debate"の冒頭には、
Here you'll find the following links to information about United States academic parliamentary debate[20]
と記されています(下線は筆者)。このように、パーラメンタリ・ディベートも「アカデミック・ディベート」である以上、「アカデミック・ディベート」は【ディベート】の呼称としては、区別の目的を果たせません。「アカデミック・ディベート」は、実社会ディベートと目的によって区別されたディベート活動のことです。
(2) ポリシー・ディベート
 【ディベート】のことを「ポリシー・ディベート」と呼ぶ人々も多く存在しています。確かに、【ディベート】で用いられる論題はたいてい政策論題ですから、【ディベート】が政策ディベートであることには間違いありません。例えば、ディベート講座・研修のチェック・ポイントとして、
政策論題で行っていれば、第一関門はクリアです。......これ以外の論題であれば、講師があまりディベートを知らない可能性が高いと考えてよいでしょう。[21]
と述べられているほどです。

 この「ポリシー・ディベート」という呼称は、日本だけでなく、アメリカでも【ディベート】を指すのに用いられています。例えば、Debate Centralのウェブ・サイトにある"LEARN TO DEBATE"では、【ディベート】とパーラメンタリ・ディベートとについて次のように記されています。

We feature instruction in two different debate formats: policy debating (extended topic, propositions of policy, use of evidence) and parliamentary debating (extemporaneous topic, any type of proposition, no quoted materials).[22]
したがって、アメリカのディベート関係者に対して通じるという条件は備えています。

 ところで、もともと英語のpolicy debateという概念は、次の定義のように、"should"の入った政策論題を用いるディベートを指しています。

policy debate: debate using a policy topic, including high school policy debate and college NDT debate.[23]
 このことは、実際、policy debateの反対概念であるnon-policy debateの使われ方からも明らかです。というのも、non-policy debateは、価値論題や事実論題を用いるディベートを指しているからです。それは、"Advance Debate"におけるnon-policy debateの章で想定されているのが、当時のCEDAにおける価値ディベート(value debate)である[24]ことからも明らかです。したがって、「ポリシー・ディベート」という呼称は、論題による区別を基にした分類であると言えます。

 以上を踏まえて、「ポリシー・ディベート」を【ディベート】の呼称として用いることの適不適を考えてみましょう。その場合、政策論題か否かによって【ディベート】とパーラメンタリ・スタイルとを区別することは、次の三点で疑問が生じます。

 第一に、パーラメンタリ・ディベートでも政策論題を用いることです。パーラメンタリ・スタイルでは全てのラウンドではありませんが、政策論題を用いるラウンドが含まれることも非常に多くあります[25]。このことは、「ポリシー・ディベート」が、時にはパーラメンタリ・スタイルも含んでしまうことを意味しています。つまり、「ポリシー・ディベート」は【ディベート】であるとは限りません[26]。逆から言えば、パーラメンタリ・ディベートは、「ノンポリシー・ディベート」ではありません。

 第二に、【ディベート】のほとんどが政策論題であるからと言って、必ず政策論題でなければならないとは言えないことです。例えば、1996年度の日本ディベート協会(JDA)のプロポジション委員会においては、価値論題の導入が検討されたことがありました。実際には、この年を含め、JDAやディベート甲子園の【ディベート】論題が価値論題であったことはこれまでありません。しかし、価値論題を導入したとしても、【ディベート】が別のスタイルに変化したとは認識されてない可能性をこの事実は含意しています。現在は「ポリシー・ディベート」に分類されているCEDAを【ディベート】に含めて考えている場合には、なおさらこの「ポリシー・ディベート」という呼称は不適切になりましょう。つまり、【ディベート】が「ポリシー・ディベート」であるとも限りません[27]

 第三に、「ポリシー・ディベート(政策ディベート)」と「パーラメンタリ・ディベート(議会型ディベート)」と言われて、初めて聞く人が両者の相違を理解できないだろうことです。なぜなら、社会通念上、議会とは通常政策について議論される場であるからです。さらに違いの説明を付け加えなければ理解してもらえないような命名をあえて選択するくらいならば、そのさらなる違いによって命名すべきでしょう。

 これに対して、「『ポリシー・ディベート』は固有名詞だ」という立場がありえます。しかし、そこまでして【ディベート】をあえて「ポリシー・ディベート」と呼ぶのであれば、次の指摘をしておきましょう。【ディベート】がもともと法廷における論争をモデルにとっていて[28]、1980年代半ばまでは刑事裁判に範をとった定常争点パラダイム(stock issue paradigm)であったこと、しかも、その時代の分析手法(ケース、弊害、カウンタープランなどの構成要件主義)がいまだ遺骸のように尾を引いていること、です。「ポリシー・ディベート」という名称に固執することが、意図せずこの歴史的背景を隠蔽する効果を持っているのを見逃す訳にはいきません。

 【ディベート】を「ポリシー・ディベート」と呼ぶことは、白人を見てアメリカ人と呼ぶことに似ています。白人はアメリカ人だけではありませんし、アメリカ人は白人だけでもありません。【ディベート】のコミュニティの名称として「ポリシー・ディベート」と呼ぶのであれば固有名詞である以上許されるのかもしれませんが、それが、白人に対して「アメリカ人」と呼び、「固有名詞のアメリカ人だ」と言い張るのに似ていることを自覚すべきでしょう。アメリカで通じるというだけでは、「ポリシー・ディベート」が適切な名称であることの根拠にはならないのです。
(3) NDTスタイル
 【ディベート】を「NDTスタイル」と呼ぶのも頻繁に耳にします。この場合には、「スタイル」の意味に十分気をつけなければなりません。

 まず、「スタイル」を「スピーチの仕方」の意味で捉えるならば、【ディベート】は「『NDTスタイル』であるべきではない」と言われます。というのも、NDTが過剰に早いスピードでスピーチするために、日本人が真似をすると特に英語教育やプレゼンテーション教育の観点から好ましくないとされるからです。しかし、ここでの「スタイル」がこのスピーチの仕方を意味していないのは既に明らかにしました。

 また、「スタイル」を「試合形式」の意味で捉えるならば、【ディベート】の多くは「NDTスタイル」ではありません。なぜなら、NDTの試合形式は、立論・反駁・反対尋問の時間が順に、9-6-3である[29]のに対して、現在のNAFAが採用しているのは8-5-4、JDAのA部門では6-4-3だからです。また、NDTは立論・反駁ともに2回ですが、ディベート甲子園では立論が1回だけです。このように試合形式は明らかに異なっており、スタイルが試合形式の意味で用いられているのではないのも明らかです[30]

 そうなると、この場合の「スタイル」が意味しているのは、「範型(モデル)」である可能性が高いということになります。つまり、NDTをモデルとしたNDT風のディベートという訳です。1980年代半ばにNAFAがNDTから学んだ試合形式・ルール・ジャッジング法・分析手法などを取り入れて行ったディベートが、現在の【ディベート】の始まりであることを考えれば、確かに合点のいくものです。

 しかしながら、現在の【ディベート】では必ずしもNDTが範型であるとも言えないことや、上記のようなスタイルの別の意味による誤解の可能性、などを考慮すると、「NDTスタイル」も完全な名称とは言えないでしょう。また、この名称では同じ英語圏でもイギリス人と会話している場面を想定すると、むしろ、パーラメンタリ・スタイルとは異なった「NDTスタイル」(【ディベート】)の特徴をきちんと述べなければ通じない可能性があります。
(4) トーナメント・ディベート
 「トーナメント・ディベート」も、【ディベート】の名称として良く用いられるものです。例えば、競技ディベート(Competitive Debate)を3つ、トーナメント・ディベート、議会方式ディベート(パーラメンタリ・ディベート)、1人制ディベート(リンカーン・ダグラス・ディベート)に分けているものがあり、そのトーナメント・ディベートの説明には次のように記されています。

 アメリカのNDT(National Debate Tournament)と呼ばれる大学生の全国大会で繰り広げられるディベートをモデルとしており、証拠資料を重視するディベート。日本の大学生のESS(英語会:English Speaking Societyの略)関連団体が開催しているもので、ディベート大会でのディベートのほとんどはこの種類にあたる。1チーム2人制。政策に関する論題を扱う。[31]

 つまり、NDTを範型としたディベートのあだ名が「トーナメント・ディベート」であるという訳です。【ディベート】とNDTとの関係は、(3)で触れましたので、ここでは、「トーナメント」という表現が【ディベート】の特徴を表わすのに適切かどうかという観点のみ触れてみましょう。

 「トーナメントtournament」は、英語の辞書には通常、「勝ち抜き戦」や「選手権大会」というような意味が記載されています。日本では、本選の「勝ち抜き戦」(いわゆる"山")あるいはそれのある大会の意味で使われることが多いので、元の英語からの意味の変化はなく、英語でも通用しましょう。

 しかしながら、この意味で「トーナメント」を用いるのであれば、パーラメンタリ・ディベートとの相違を表わすことはできません。

 第一にパーラメンタリ・ディベートでも「トーナメント」は存在するからです[32]。国内大会でも、国際大会でも、"山"のついた大会は存在しています。パーラメンタリ・スタイルにもある以上、トーナメント・ディベートは【ディベート】に限りません。

 第二に、【ディベート】でも"山"のない大会は数多く存在しているからです。大学ESSで行われている、SEED(Sophomore English Educational Debate)やFEED(Freshmen English Educational Debate)などとは、【ディベート】ではないと言うのでしょうか。それは、大きな無理があります。したがって、【ディベート】であっても、トーナメント・ディベートであるとは限りません。

 したがって、「トーナメント・ディベート」という呼称も、【ディベート】の適切な呼称とは言い難いと言えます。

(5) 伝統型ディベート
 一部の市販の書籍では、【ディベート】の呼称に、「伝統型」という名が用いられています[33]。確かに、アメリカにおいてNDTの原型が始められたのが1947年であり[34]、日本でNDT風のディベートが始められたのは1950年の国際教育センター(IEC)です[35]から、【ディベート】が既に半世紀程経っているのに対して、アメリカにAPDAが設立されたのが1982年[36]、日本でパーラメンタリ・スタイルのディベートが行われるようになったのが1990年頃です[37]から、アメリカにおいても日本においても【ディベート】は伝統的なディベート・スタイルだと言えます。そして、アメリカにおいて"traditional debate"は【ディベート】として通用すると言われています。

 しかしながら、イギリスに目を転じると事情は全く異なります。むしろ、イギリスにおいて伝統的なディベート・スタイルは、パーラメンタリ・ディベートだからです。例えば、オックスフォード大学のOxford Unionが設立されたのは、1823年であり、既に170年以上の歴史を誇っています。したがって、イギリスで"traditional debate"と言った場合には、パーラメンタリ・スタイルが想起されるかもしれません。

 このような日米でしか通用しない呼称をあえて採用する理由はないでしょう。「ディベートは日本とアメリカとだけの独占物ではない」[38]のです。
(6) Cross-Examination Debate
【ディベート】のことを"Cross-Examination Debate"と呼ぶこともあります。例えば、
The extemporaneous feature of parliamentary debate is one of the primary differences between it and cross-examination debate as practiced in U.S. secondary and post-secondary institutions. Cross-examination debate organizations select one or two topics for debate during an academic season.[39]
が典型です。確かに、現在のNDTでも、ほとんどの日本の【ディベート】でも、反対尋問(質疑応答)が行われており、パーラメンタリ・スタイルでは全くそれは行われていないことから、反対尋問が【ディベート】の特徴的なルールであると言うことは言えます。

 しかし、この呼称の第一の問題は、「クロスエグザミネーション・ディベート」というカタカナが日本の【ディベート】界(特に日本語ディベートのコミュニティ)で必ずしも定着していないことです。そもそもcross-examinationを何と呼ぶかについても、反対尋問、質疑、質疑応答、など一つに定まっていません。

 第二の問題は、これではCEDAを範型にしていると誤解されかねないことです。CEDAもNDTも同じ論題になった現在では大きな問題ではないのかもしれませんが、【ディベート】がCEDA誕生依然にはcross-examinationのなかったNDTを範にとっていたことを隠してしまいます。

 第三の問題は、【ディベート】をこう呼んだ場合のパーラメンタリ・スタイルの呼称です。両チーム相互の質問の仕方に焦点を当てて命名するのであれば、パーラメンタリ・スタイルは"Point of Information Debate"と呼ばなければならなくなります。

 そもそも、相手チームに対する質問の仕方が、【ディベート】のアイデンティティとなる程に重要な要素なのでしょうか。かつてのNDTにcross-examinationがなかったように、【ディベート】から反対尋問を取ったとしても、依然【ディベート】だと感じることでしょう。そうだとしたら、ルールの中でも質問の仕方を軸とした区別をとる必要性はありません。
(7) quotation-oriented argument debate
 青沼氏によれば、アメリカでは、"quotation-oriented argument debate"と呼ぶ人もいるそうです。また、"evidence-based style"という名称でも通用するようです[40]

 両者の趣旨は同じものであり、【ディベート】のアイデンティティを証拠資料の引用という点に求めています。確かに、およそ【ディベート】である限り、必ず証拠資料の引用が認められるのに対して、パーラメンタリ・ディベートのあらゆる大会で証拠資料の引用がルール上禁止されていることから、パーラメンタリ・ディベートとの区別としては適切と言えましょう。また、反対尋問に比べれば、証拠資料の使用という特徴を区別の軸として取り上げることは、【ディベート】のアイデンティティという観点からしてより重要な部分に焦点を当てている感があります[41]

 この名称の難点をあえて探すとするならば、第一に適当な日本語が未だ存在していないことです。言わば「証拠資料型ディベート」ということなのですが、これもこれに類する名称も、日本語として定着しているものはありません。

 また、対応するパーラメンタリ・スタイルの呼称をどうするのかというのも問題になるかもしれません。例えば、「即興型ディベート」というのは、パーラメンタリ・ディベートの比較的重要な特徴を表現したものとして優れていますが、必ずしも即興でなければパーラメンタリ・ディベートと呼べないということもないようです。海老原氏によると、シンガポールの大学では、国内に対戦相手が少ないため、高校生と練習試合を行うこともあるそうですが、その場合には、高校生には事前に論題を知らせ、ケースを準備する時間を与えることがあるようです。

 こうした難点はあるものの、このような名前は、英語で通用するという強みもあり、かつ、命名の目的からしても比較的優れていると言えましょう。

 ただし、絶対的に優れているかと問われれば、肯定的な返答には留保を付けさせていただきたいと思います。なぜなら、確かに反対尋問と比べれば証拠資料の引用は【ディベート】のアイデンティティにより近いとは言え、それは相対的な問題に過ぎず、証拠資料の引用がなくとも【ディベート】が成立する可能性を否定できないからです。

(8) NAFAスタイル/JDAスタイル
 「NAFAスタイル」「JDAスタイル」という呼称は、ほとんど用いられてはいませんが、ありうる名称でしょう[42]。【ディベート】の普及と質の向上とにNAFAやJDAがこれまで大きく貢献してきたことを考えれば、「スタイル」を「範型(〜風)」の意味にとってこう呼ぶことも不適切なことはないでしょう。

 しかしながら、この呼び方は、英語にしたときに通じないという欠点を持っています。アメリカやイギリスの人に対して「NAFAスタイル」「JDAスタイル」と言っても、日本のディベート事情によほど詳しくない限り、どのようなスタイルか分かってもらえないでしょう。その場合には、さらなる説明を加える必要が出てしまいます。

 また、「スタイル」を「主催団体」や「コミュニティ」の意味にとるとしたら、【ディベート】がNAFAやJDAの専売特許のようで、あまり好ましく思わない団体や人々が出てくるかもしれません。

 これらの点と、さらには現在においてほとんど用いられていないことなどからは、この名称はありうるものとは言え、あまり優れた候補とは言えないと考えられます。

5 おわりに

 まず、これまでの議論をまとめ、続いてこの小論の意義を考えたいと思います。

 この文章の目的は、NAFAで行っているようなスタイルのディベートを何と呼ぶべきかを検討することにありました。ここに言う「スタイル」とは、ディベートの種類のことであり、その種類分けは、(1)試合形式、(2)ルール、(3)論題、(4)目的、(5)主催団体、(6)コミュニティ、(7)範型(モデル)、など幾つかの異なった観点から行いうることをまず明らかにしました。続いて、ディベート・スタイルに命名するにあたっての条件として、こうした区別の目的に合っていること、英語で通用すること、名実一致の3点を挙げました。こうした視角からこれまで用いられている8つの名称について検討を加えました。検討の結果、どの名称も一長一短で、これぞという決め手はなかなか見つからない状態であることだけは分かりました。

 以下はあくまで仮説なのですが、パーラメンタリ・ディベートと【ディベート】との区別は、試合形式・ルール・目的などの観点から行われているのではなく、もともとは範型によって区別されていたものではないかと私は考えています。というのも、元々は、【ディベート】が法廷をモデルにしたものであるのに対して、議会をモデルにしたものをパーラメンタリ・ディベートと呼んでいたように思えるからです。

 ところが、ここ二十年くらいで、法廷をモデルにとっていた【ディベート】が、法廷のモデルを放棄し、政策決定のアナロジーを導入しました。stock issueからpolicy makingへの変化です。そのために、【ディベート】を「法廷ディベート」と呼べなくなってしまい、パーラメンタリ・ディベートとの区別が困難になってきました。結果として、現在では、若干の試合形式・ルール・目的の相違はありますが、実状に即して考えれば、それら以上に主催団体やコミュニティの観点から区別されているのと考えるのが最も整合性がとれそうです。「『ポリシー・ディベート』は固有名詞」という発言は、そのことを如実に表わしています。

 ところで、「日本」という名称が「日出る国」「日の本の国」に由来するものであることを理由に、地球大に拡大した現在の地理観・世界観から見て滑稽だと批評するのはあまり大きな意味を持ちません。同様に、【ディベート】を何と呼ぶかについても、大所高所から議論することがあまり大きな意味を持たない可能性があります。しかしながら、それは、NDTがcross-examinationを取り入れた現在でもCEDAが団体名として通用している事態と同様に、当初何らかの軸に沿って付けた固有名詞が陳腐化してしまった例に過ぎません。したがって、「エスキモー」を「イヌイット」に、「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」に呼び名を変更したように、不適切な呼称であれば、潔く取りやめる勇気が必要な場合も、またもちろんあるのです。

 本来、【ディベート】の名称について侃侃諤諤の議論をする余裕があるのであれば、【ディベート】がどうあるべきかについてより多くの時間や労力を割いて議論すべきでしょう。名前よりも実質をどうするかの方が、アカデミック・ディベートが教育的な活動である以上、重要だからです。そもそも【ディベート】はどうあるべきかを巡るアイデンティティ・クライシスこそが、この名称論争の発端になっているとも言えるのですから、この点は決して忘れてはなりません。ならば、まずは【ディベート】をパーラメンタリ・スタイルとは異なったどのような活動にしたいのかを明確にし、その軸に沿った命名を行うべきだと考えられます。場合によっては、パーラメンタリ・ディベートと区別する必要性はないという結論が出ることかもしれません。

 先に問うべきは、【ディベート】をどういった方向に持っていきたいか、です。名前の良し悪しをこね回すようなここでの議論は、不合理なTopicalityの議論に似て、単なる言葉遊びの域を出ないでしょう。この問題に結論を出すには、【ディベート】の目的を徹底的に議論しなければならないようです[43]

(はすみじろう)


[注釈]

1 松本茂『頭を鍛えるディベート入門――発想と表現の技法』(講談社Blue Backs, 1996年)、41頁。西部直樹『はじめてのディベート』(あさ出版、1998年)、36頁。

2 青沼智「synchronizing with ndt」JDA-ML [JDA :6271](Tue, 21 Dec 99 18:56:59 JST)

3 鈴木雅子「中高DEBATE&『NDTスタイル(?)』」JDA-ML[JDA :6278] (Thu, 23 Dec 99 01:09:15 JST)、蟹池陽一「Naming and properties」JDA-ML[JDA :6285](Fri, 24 Dec 99 14:16:53 JST)、山本慎治「Re: Naming and properties」JDA-ML[JDA :6289](Sat, 25 Dec 99 09:06:53 JST)、山中允「Re:『NDTスタイル(?)』」JDA-ML[JDA :6290](Sat, 25 Dec 99 11:49:15 JST)。また、井上奈良彦「『アカデミックディベート』という用語」JDA-ML [JDA :6687] (Thu, 29 Jun 2000 00:57:02 JST) 、蟹池陽一「Re: 『アカデミックディベート』という用語」JDA-ML [JDA :6694][Thu, 29 Jun 2000 06:51:34 JST)、安井省侍郎「Re: 『アカデミックディベート』という用語」JDA-ML[JDA :6697](Thu, 29 Jun 2000 10:19:39 JST)、田村洋一「Re: 『アカデミックディベート』という用語」JDA-ML[JDA :6700](Thu, 29 Jun 2000 15:24:24 JST)。

4 実際には、他の種類のディベートもありました。例えば、90年代前半頃まではIECがリンカーンダグラス・スタイルの英語ディベート大会を開催していました。

5 Hanson, Jim NTC's Dictionary of Debate (Lincolnwood (Ill): National Textbook Company, 1990), p.174.

6 Sather, Trevor (ed.) Pros and Cons: A Debater's Handbook 18th Edition (London: Routledge, 1999), p.6.

7 大和田貴仁ほか『Essence of Parliamentary Debate (2nd Edition)』(ICU Debating Society, 1999), pp.29-36.

8 See, Hanson, op. cit., p.49 ("debate format").

9 矢野善郎「実のある『ディベート談義』のためにーー生産的な議論を妨げる『二項対立』」『Debate Forum』 (NAFA出版会・1995年)10-4, p.269.

10 British Styleは、イギリスを中心に世界大会で用いられる試合形式で、1チーム2名で2チームが1つのサイドを構成し、立論・反駁各2回を計8人のディベータが1回づつスピーチします。North American Styleは、北米と日本国内で用いられている試合形式で、1チーム2名で1つのサイドは1チームで構成され、立論2回・反駁(要約)1回となっています。Australia-Asian Styleは、オーストラリアと東南アジアを中心に用いられている試合形式で、1チーム3名で1つのサイドは1チームで構成され、立論3回・反駁1回というものです。

11 師岡淳也「National Debate Tournament (NDT)ディベートの現状について」『JDA Newsletter』(日本ディベート協会・1998年)13-3, p.11.

12 アメリカの学生ディベートについて時折用いられる「サーキット」という表現は、この(5)または(6)の意味と考えられる。

13 大和田ほか、前掲書、 pp.111-113.

14 沢田允茂『考え方の論理』(講談社、1976年)、34-35頁。沢田は、特にクラスについて指摘しています。

15 沢田は、ものの名前は私たちの生活や態度に関係して、必要に応じてつけられるとしています(前掲書、32-34頁)。肉と区別するときに「野菜」と呼ぶのは適していても、八百屋へ行って「野菜を下さい」と言うのは不適切だとの例を挙げています。

16 矢野善郎「不適切な英語ディベート用語」『Debate Forum』(NAFA出版会・1994年)10-1、84-86頁

17 蟹池、前掲メール。

18 KUEL The Executive Committee of Parliamentary Debate in 1999 (ed.) 『Parliamentary Debate Manual 1999: Road To Millennium』(1999年12月12日発行), 5-9頁

19 矢野善郎、前掲「身のある『ディベート談義』のためにーー生産的な議論を妨げる『二項対立』」、268頁。他にも、パーラメンタリ・ディベートを教育ディベートの一種としている邦書として、松本、前掲書、38-42頁。西部、前掲書、35-37頁。

20 http://www.bethel.edu/Majors/Communication/npda/aboutparli.html

21 西部、前掲書、174頁

22 http://debate.uvm.edu/learndebate.html

23 Hanson, op. cit., p.135.

24 Thomas, David A. & John P. Hart (eds.) Advanced Debate: Readings in Theory, Practice and Teaching 4th ed. (Lincolnwood (IL): National Textbook Company, 1992), pp.453-576.

25 蓮見二郎「アジアから見える日本のアカデミック・ディベート(下)」『Debate Forum』(NAFA出版会・2000年)14-3、194-195頁。

26 実際、オレゴンにあるLewis & Clark Collegeのウェブサイト(http://www.lclark.edu/COLLEGE/DEPAR/COMM/FORENSIC/)では、Lewis & Clark competes in CEDA/NDT policy debate.と記されており、CEDAやNDTがpolicy debateの一つに過ぎないことが意識されている。

27 1921-22年におけるNDTの論題は、政策論題ではなく、"RESOLVED: That the principle of the closed shop is unjustifiable."である。(See, Herbeck, Dale and Kimball Wong "The Indivisibility of Value Claims from Policy Positions: An Argument for Policy in Value Debate." Advanced Debate 1992, p.526n.)

28 Cox, E. Sam and Kendall R. Phillips "Impact and Implications of Parliamentary Format on American Debate." Advanced Debate 1992, p.95, 97.

29 師岡、前掲論文、11頁。

30 そもそもcross-examinationを導入している【ディベート】が「CEDAスタイル」と呼ばれないのは、奇妙なことです。

31 松本、前掲書、41頁。

32 蓮見、前掲、195頁n。

33 例えば、西部直樹、前掲書、36-37頁。

34 Hanson, op. cit., p.115.また、岩下によると、プリンストン大学で大学間のディベートが始められたのは、1800年代です(岩下貢『ディベート原論・総合編』(学書房、1979年)、108頁)。

35 大和田ほか、前掲書、3頁。

36 前掲書、112頁。

37 前掲書、4頁。

38 蓮見、前掲、193頁。

39 Trapp, Robert"Parliamentary Debate." http://www.bethel.edu/Majors/Communication/npda/parliamentary.html

40 参照、菅家知洋「Re: US-Japan Exchange Debate」JDA-ML[JDA :6366] (Thu, 2 Mar 100 02:09:48 JST)

41 これに対しては、蟹池(前掲メール)の異論があることを記しておきます。

42 井上、前掲メールが「NDT-NAFAスタイル」という名称を提案しています。

43 同様の結論は、山中允(前掲メール)も一部表明しています。


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