1 米国のオーラル・コメント制度について
これは私が1987年に米国でディベート・コーチを始めたときには,すでに若手ジャッジ(主に大学院生)の間では一般的な制度になっていました。理由はいくつかあります。
(1) 簡単に修正できるクロス・エグザミネーションのポイントや,不利益のリンクの説明などのコメントを与えるのが,バロットを通じてでは予選終了後になってしまう。
(2) バロットを通じてのコメントは一方通行指導だが,オーラルでのコメントを与えることで双方向的な指導がはかれる。ただし,年輩のジャッジでコメントはあくまでバロットによるとの信念から,現在にいたるもオーラル・コメントをしない先生も少数いらっしゃいます。ちなみに90年代には,オーラル・コメントをするジャッジのほとんどはバロットのコメント欄を白紙にしていました。
(3) 日本ではDAは基本的に取るか取らないかだが,米国ではどこまで否定側によってマキシマイズされたか,肯定側でミニマイズされたかで審査される。つまり,審査員がDAをどのようにADと比較したか(weigh)がジャジングの重要なプロセスであり、オーラル・コメントを通じて、どのエビデンスがどれくらい重みを持ち,どの説明がどの程度の説得力を持ち,どのインパクトが相手のインパクトをどのように上回ったのか,を説明されます。ジャッジがディベーターに対して、自分の決定を正当化する説明責任(accountability)があるのです。
同時に、ジャッジが双方の議論を比較したかに興味を持つよりも,自分たちの主張を取ってくれないジャッジをすぐ「クリティックされた」と批判する一部の日本のディベーターの態度は,あまりいただけません。
もちろん、日本で取り入れる場合に絶対に必要な運営上の注意事項があります。
(1) 審査員にディシジョンを出してからコメントさせる。でないと、オーラル・コメントは20〜30分におよぶこともあり,大会の運営を妨げます。
(2) コメント中に気が変わっても,ジャッジは出したディシジョンを絶対変えない。本来そうしたことはあってはならず,ジャッジは15〜30分は時間をかけてディシジョンを出すべきです。ディベーターも「一度出されたディシジョンは変わることはない」という前提で,質問があれば真摯な態度で確認することが必要です。
(3) ディシジョン・ルームを廃止して,ジャッジは試合がおこなわれた部屋に残る。必要があれば試合後エビデンスを読んで,フローシートとの確認をおこなう。大会運営者は,ラウンドの終了時間ごとに各部屋を回ってディシジョンのシートを集めて回る人を配置する。
2 オーラル・コメントを行う上での留意点
90年代の米国で最高のジャッジ5人の一人に選ばれたアイオワ大学のデビット・ヒングストマン先生が言っていたことですが,ディベートを単なる勝ち負けのゲームとして捉えるのではなく、「新たな変革を提唱するポリシーの総合的なリスクの判定」(assessment
of the over-all risk of a proposed policy change)と考えることが重要と思います。
主にオーラル・コメントの内容は,3点に集約されます。
(1) どのアーギュメントが最後までディシジョンを出す上で論点として残ったか?
日本では,最低限の論証のレベルに達しなかったり,途中からポジションが曖昧になったり,ドロップした議論にいたるまで,どうジャッジしたか試合後に求められることがあります。米国では,一つの試合でTopicality
2,Disadvantage 3?5,Counterplan 2,Case flip 20近く,Link/impact turnarounds
30近くが出るのも普通なので,最後まですべてが議論されることはありえません。どの議論を選ぶかというストラテジック・チョイスも重要なのは言うまでもありません。
(2) ディシジョンを出す上で,どの部分のエビデンスが吟味されたのか?
具体的には、出典のオーソリティーや,出版の時期,リーズニング,ディベーターのクレームとの一貫性,など。僅差の試合でたった1枚のエビデンスが試合を左右することもめずらしくありません。
(3) どのストラテジーが機能したか?よいアーギュメントを最高のエビデンスで証明しても,高レベルの試合では戦略が悪くて負けることがあります。逆に,「こうした別のチョイスをしていれば今日の試合の結果はわからなかったのに」というジャッジのコメントがないと,負けにされたチームが納得しません。
3 ディベーターへの影響
米国のディベーターが,「自分たちに入れてくれるジャッジがいいジャッジで,入れてくれないジャッジが悪いジャッジ」という考え方をしないのには,いつも感心しました。
また,常に多数派に入るジャッジがよいジャッジがいいジャッジで,常に少数派に入るジャッジが悪いジャッジというわけでもありませんでした。たとえば,ウエィク・フォレスト大学のロス・スミス先生はNDTの決勝をジャッジするといつも少数派ですが,90年代の米国で最高のジャッジ5人の一人に選ばれています。
ちなみに,私の複数ジャッジの試合での多数票率は,8試合ジャッジしてだいたい6?7試合くらいで,1〜2試合が少数票でした。少数派になった理由のほとんどは,私が日本でしかディベートの試合をしていなかったために,ターン(turnaround)の審査が米国人と食い違ったためです。意外にもTopicalityやCounterplanは,ディベーターがくわしく試合の中で説明してくれることもあって,ジャジングがずれることはあまりありませんでした。
さすが80年代,90年代ともに米国の最高のジャッジ5人の一人に選ばれたダートマス大学のケン・ストレンジ先生が少数票を出すことはほとんどありませんでしたが、有名なジャッジの間で1つの試合の判定が割れることがめずらしくないのはあちらも日本と同様です。しかし,多数票であっても,自分の判定をきちんと正当化し,さらにディベートの質を向上させるためのアドバイスを期待されることは,日本よりキツイかもしれません。
よいジャッジの条件は、以下の通りです。
(1) たくさんの試合をジャッジしており論題の理解が深い。
(2) これが一番大切なのですが,首尾一貫した審査基準を採用しており,対戦相手や試合によってジャッジングが変わらない。一番困るのが,理論的な立場をころころ変えたり,よく考えずにランダムにボーティング・イシューを選び出す人です。
(3) 日本でオーラル・コメントを取り入れる最大のメリットと思われるのは,ジャッジが自分が出したディシジョンにいたるまでのプロセスをきちんとディベーターに説明できるようになること。なんとなく負けにされてしまうのではなく,負けた理由がアーギュメントなのか,エビデンスなのか,ストラテジーなのか分かれば,ディベーターも今後の対策が立てられます。納得のいく説明も無しに負けにされると,負けたという結果だけが残ることになります。これは最近、日本で英語ディベート人口が減っている一因ではないでしょうか。
4 まとめ:オーラル・コメントの是非
大会中に結果がわかると,ディベーターががっかりするというのは,オーラル・コメントを取り入れた時のメリットと比較すると,小さいのではないでしょうか。僅差の試合では,どの論点が試合を左右するかはディベーターもわかっているはずですし,そこに有益なコメントがもらえた方が大切ではないでしょうか。
よく米国時代にコーチがディベーターに行っていたのは,「プロフェショナルのプライドをもって活動に参加しろ」です。私はこれを感情に流されたり,おざなりにではなく,全力を尽くして誰に対してもはずかしくない態度で活動に望め,という意味に解釈しています。
ジャッジもお金をもらっている以上,ディベーター以上にプロフェショナルであるべきだと考えます。オーラル・コメントは,ジャッジがディベーターを育て,同時にディベーターがジャッジを育てる素晴らしいシステムです。最初は今までの貯金でルンルンでジャッジをつとめていた卒業したてのディベーターが,公正で有益なジャッジングをすることの怖さを知るようになるのがだいたい1年後くらいです。短期的には、ジャッジに負担がかかると思いますが,それによって長期的に日本のディベートのレベルがあがれば,ディベート大会に来るのが彼らにとっても楽しみになるのではないでしょうか。
一方的に資料を読みまくって相手を丸め込むゲームではなく,「否定側と肯定側の議論を通じてのコミュニケーションのやりとりをジャッジという第3者に判定してもらう」という,ディベートの基本的な構造を考えたとき,オーラル・コメントによってフィードバックをもらうというのは自然なシステムです。
また,先輩が頻繁に指導に来てくれる恵まれた環境の学校を除けば,直接に教育的な指導を受けられる日本のディベーターにとっては貴重な機会だと思います。導入の初期においては,オーラル・コメントになれた人に具体例を示してもらったり,日米交換ディベートを利用してコメントをもらったり,不信感を取り除き効用を理解してもらう努力も必要でしょう。
舌足らずだったかもしれませんが,以前から考えていたことに関して発言の機会を与えてくれたNAFAの皆様にお礼を申し上げます。本論が今後の日本のディベートの発展のため、多少なりとも問題提起になれば幸いです。
(すずきたけし)
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