1 「異種格闘技」ディベート大会
名古屋と静岡に住む私達が,今大会どのようなディベートをしたかは,村上の文章を参照して下さい。(まだそちらを読んでいない方は,そちらから読まれることをお勧めいたします)準備は2人でしかできない,実際に練習試合ができないぶっつけ本番,という状況で,今回の準優勝はよくやったと思います。日本語ディベートを続けてきた甲斐がありました。
JDAの日本語ディベート大会は,村上が述べたように,様々な人が集まって,ディベートをします。高校生から社会人の人まで,英語ディベートをしている人から,日本語でしかディベートすることが出来ない私達のような人まで,ジャンルはさまざま,たったひとつ「ディベーター」であるという共通項で日本各地から集まります。また,細かいルールについては,定められていません。ディベートとしてある程度確立された概念(肯定側がプランを示す,など)は,あるのでしょうが。
まさに「異種格闘技戦」です。私達もこれまで英語ディベーターの皆さんや,社会人でディベートを楽しんでいる皆さんと対戦して,大変勉強になりました。
2 違和感 〜ナンバリング〜
その中で感じたことは,ディベートで「当たり前」とされている概念に対する「違和感」です。ディベートの手法は,緻密な論証の方法など,参考になる部分がありますが,それを日本語にして行うと,どうも違和感を覚えることがあります。なぜか機械的で,日本語で議論をしている心地がしない。特にディベートの基本である「コミュニケーション」の部分でそれを強く感じていました。
そこで今回の大会では,肯定側立論である試みをしました。それは,ディベーターの人口に膾炙した「ナンバリング」についてです。A・・・・・・。B・・・・・・。私達も最初に立論を作ったときはナンバリングを細かくつけていきました。しかし,細分化することで逆にそれぞれの論点のつながりが分かりづらくなってしまったのです。ジャッジとして聞くのではなく,ひとりの聴衆として聞いてみると「???」となってしまうのです。
そこで思い切って,全てナンバリングを外し,それぞれの論証をひとつのストーリーのようにしてみました。当然,証明する順番に気を使いながら。すると,日本語らしく,違和感のない,話のわかりやすい立論になりました。実際どういう立論だったかは,字数の関係と手の内を明かしてしまうことになりますので差し控えますが,アウトラインとしては,
A 「国籍とは何か(Goal)」
B 「国籍とは何か(ImpactのQuality)」
C 「被害の大きさ(ImpactのQuantity)」
D 「被害の原因分析(Inherency)」
E 「プラン(Plan)」
F 「解決性(Solvency)」
となっていました。これらをそれぞれの論点でA,B,C・・・・・とナンバリングをせずに,何を説明するかのラベルだけを付けて述べていったのです。プランは3点あったので,そこは番号を付けましたが。
3 大会でのコメント
実際,今回の大会の2試合目でこの立論が登場しました。ジャッジの方には,「論証はよい」とコメントされましたが,同時にナンバリングをしたほうが良いのかもしれない,との指摘も受けました。その方は英語ディベートをされてきた方で,日本語ディベートの試合を見るのはほぼ初めてとのことだったので,ナンバリングを細かくした方がよいのかどうかについてはわからない,考えてみる余地がある,とも言われたことを覚えています。そのジャッジの方とも,もうちょっとその点について議論してみたかったのですが,時間がなかったのでできませんでした。
しかし,「既存の概念であるナンバリングを疑う」ということに関しては成功だったように思いました。ジャッジの方も我々も「どちらが良いかわからない」ということを発見すること,それが,より良いディベートをする第1歩なのですから。
4 ナンバリングの是非
いろんなマニュアルや入門書などを見ていると,ナンバリングした方が理解しやすい,という記述をみかけます。しかし,時にはナンバリングしなくても伝わる事もありますし,その方が分かりやすく伝わることもあると思います。
英語ディベートだと,母国語でない英語を理解するという作業があるため,ナンバリングは必要不可欠なのかもしれませんが,日本語だと,母国語ですから,ある意味では不必要にナンバリングすることでかえって分かりにくくなることもあるのではないでしょうか。
質疑(尋問)をする上で「Aの問題点のところの資料について質問したいのですが・・・・・・」とか,「Cの解決性の資料はどういった立場で書かれたものなんですか?」といった質問には,「Aの」「Cの」がなくても,それぞれ「問題点の『・・・・・』のところで述べられた資料について質問したいのですが・・・・・・」とか,「解決性の『・・・・・』の資料はどういった立場で書かれたものなんですか?」分かるような気がします。
また,反論での,ナンバリングに頼りきったスピーチも違和感があります。反論するときなんかには,「否定側の言うような話は違います。そこは論点Aの1つ目の議論の資料を参照してください」とだけいわれてしまうと,Aのどういう話だったかを思い出さなくてはいけません。フローシートを取って見ている人にとってはまだしも,フローシートを取って見ていない人にとっては「なんのことを言っとるんかいね??」となってしまいます。しかも記号だけの論争です。
ジャッジを説得することを第一義においているディベートでは別に問題ないことなのかもしれません。しかし,日本語でディベートするからには,『ディベートをあまり知らない人がみても「なんか早口で,小難しいことを言っているけど,いま日本ではこんな問題があるのか。勉強になったなぁ。」と,何か感じ取ってもらえるようなディベートをするように心がけています。(村上の文章より引用終了)』というように,コミュニケーションも重視したいと思っている私達としては,これからも追求していかなくてはならない問題だと思っています。
5 「異種格闘技戦」で検証できるコミュニケーション
このナンバリングについての問題は,とても細かいかも知れませんし,本稿の字数と私の文章能力のせいで,わかりにくかったかもしれません。また,これらの問題はスピーチの仕方の問題で,ナンバリングだけの問題ではないのかも知れません。
しかし,言いたいことは,母国語である日本語でディベートをするときには,日本語と英語の伝達スピードの違いなどから,母国語でない英語でディベートをするときの概念をそのまま受け入れてディベートをすることは,かえってよくない場合もあるのではないか,工夫の余地があるのではないかということです。
逆に,日本語の伝達能力に頼りきったスピーチもいけないと思います。「我々否定側第二立論の最後に検証した話によると,」なんていう「最後ってどこやねん!これで本当に伝わっているのかいな?」と疑ってしまうようなスピーチの仕方も見直していかなければならないでしょう。実際に私もよくやってしまいます。
また,これはナンバリングやコミュニケーションの問題だけではなく,論証すべき内容のレベルについても同じことが言えるのかもしれません。日本語と英語では,伝わる内容とその印象が違うのですから,ここまで論証しなければ立証されていない,なんていう基準も違ってくるのではないでしょうか。例えば同じ利益を発生させる時でも,立証すべき内容が日本語と英語では違ってくるのかも知れません。
そういった「差」を感じ,検証してみることが,ディベートのコミュニケーションをよりよいものにするのではないでしょうか。英語ディベートをやっている方は,ぜひ日本語でディベートをやってみて,その違いを感じてみてください。そうすると,「何を,どう伝えるか」という,ディベートの本質的な部分を見直すきっかけになるかもしれません。また,日本語ディベートをやっている方も,言語の壁はとても厚いですが,英語ディベートに触れることで,日本語でディベートする際に注意するべき点や,立証するときに注意する点,スピーチする際に改善するべき点など,参考になる部分がたくさんあると思います。
その「差」や「違和感」を感じることが出来るのが『JDA日本語ディベート大会』の魅力のひとつなのではないか,と思います。特に今回の決勝戦で慶応高校のESSのみなさんと対戦することで,それを感じました。私達は,高校(甲子園ディベート)時代から,日本語のみでディベートをしてきました。議論の内容や勝敗は別にして,ESSで英語ディベートに慣れた彼らのディベートとの「差」が浮き彫りになって,そういう意味ではとても面白い試合だったと思います。この大会の参加者が増え,様々な「差」や「違和感」を感じる機会が増えるよう,この大会がもっと発展していくことを祈っています。
6 最後に
京都から帰ってみたら,JDA決勝戦のチェック用のトランスクリプトが届いていました。恥ずかしい試合をしてしまった悔しさがよみがえってきました。また決勝に出て,良いディベートをトランスクリプトに残そう,それがこれからの目標です。
では,『JDA日本語ディベート大会』の試合会場でお会いいたしましょう。そのときは名古屋近辺だったりするといいな,と思う今日この頃です。
最後に,『ここに載せるべき感謝のことばは,村上の文章の最後の段落を参照してください。』これで伝わっていますか?
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